すべての生き物には三大欲なるものがあるという。
まず一つ目は、睡眠欲。
ずーっと寝ないと、気が狂うらしいし。
あって当然かな、と思う。
二つ目は、食欲。
体の構造的に栄養素が体内に入ってこなかったらそれは機能しないにきまってる。
食は自然の大前提で、幸せでもあるわけだ。
最後のやつだけど……。
そこで、ばたん、とドアのしまる音がした。
今まで何とはなしに聞いていたシャワーの音が突然騒がしいほど大きくなったような気がして、
蜂散はシャワーのノズルをキュッと締める。
滴る雫もそのままに、薄いガラスの扉越し、ひょこりと頭を動かせばばそこには思った通り銀色の髪が揺れていた。
「今日もおいしそう、じゃなかった可愛いねツユキ」
にっこり笑って、だいすきな彼に蜂散はいつもの挨拶をした。
突然背後から話しかけられて肩を震わせるかと思いきや、
ツユキは慣れた様子で肩をすくめ、ため息を小さく吐いて蜂散を見据える。
「………何してるんですか人の部屋で」
「何って、シャワー浴びてんの。あ、ツユキも一緒に入る?」
入りませんよ、と思い切り怪訝そうな顔をしてツユキは唸った。
そんなツユキの可愛いリアクションにくつくつ笑いながら、蜂散はバスタオルを手繰り寄せる。
だが、後数センチ、指先はタオルロッカーに届かない。
濡れたままツユキの部屋のし歩くのはやだしな。火照る頭でのんきにそんなことを考えていると、
目の前にぐいっと別のタオルがつきだされた。
ツユキは少し顔をそらして、タオルをつかんだその手だけ蜂散に向けていた。
おまえはししゅんきのむすめか。
そう漠然と言いそうになった言葉は心の中で口にする。
さんきゅ、とだけ呟いて、蜂散はバスタオルを受け取った。
「どうして俺の部屋でシャワー浴びてんのかって聞いてるんです」
総合部室のわきに、シャワー室あるでしょう?
ガラス越しとはいえ噛みつくようにたずねてくるツユキに、
だってあそこ公共だし嫌なんだもん、と蜂散は子供のように言い訳を立ててみる。
バスタオルで雫をぬぐうと、なんだか甘い香りが広がって、のぼせた頭がくらくらする。
でもそれが愛しいツユキの匂いだと気づくのに、それほど時間はかからなかった。
「はーツユキの匂いだー」
「ちょ、何嗅いでんですか!?」
「いいじゃんツユキがくれたんだし」
けらけらと答えればツユキはガラスの向こうから変態!と叫んでくる。
そんな暴言すら蜂散にはとても甘く絡みつく密のようで。
ツユキは判ってないんだろうなァ、そう思ってまた忍び笑いを繰り返した。
思えば思うほど、笑えるほどおかしな話だということがはっきりする。
ツユキは普通の学生で、俺はもうそろそろ成人したっておかしくない歳なのに。
ツユキが寮生活してるのをいいことに、上がり込んで一緒にすんでるだなんてバレたら大問題だ。
判っているのに頬が自然と緩むのは、それは、きっと一種の優越感。
他の誰も知らないツユキの私生活は、蜂散だけが知っているとっておきの秘密なのだ。
だから、合鍵使っていつ何時侵入しても、ツユキは怒ったふりをして、俺を拒みはしないわけで。
くつくつと腹の底から笑いがこみあげてくる。
ツユキのこと独占してると思いこんで、更にそれを嬉しく思うなんて、マジで俺頭イカレてる。
でも同時に、それほど自分はあの少年を愛しているのだということが事実であることも判っていた。
ツユキはガラスの扉をなるべく見ないように、全神経を集中させて部屋の掃除をしようとしていた。
突然の侵入者に、というか蜂散に心を乱されないよう、訓練していかなければ。
毎度毎度突拍子に心の中を掻き混ぜられてはたまらないのだ。
気がつくと、機嫌がいいのか、蜂散が鼻歌まで歌っているのがうっすらと耳に届いた。
調子いいんだから、そう思ってあきれる半面、笑みがこぼれてしまうのはなぜだろう。
俺、蜂散さんのことどう思ってるんだっけ。
そうぼんやり考えていることに気づいて、ツユキははっとあたまをふる。
さっそくやられてしまった、というよりか、もうすでに手遅れなんじゃないだろうか?
あんな薄情で意地悪な人に俺はもうとりつかれてしまって、
それは一種の麻薬のように、俺のすぐ後ろをぴょこぴょこ付いてくるようになってしまったんじゃないだろうか。
小さくため息をついてから、ツユキはすとんとソファに座りこんだ。
やっぱり、ダメだ。
あの人のことを考え始めると、どうもいつもぐるぐると渦巻いてしまってすっきりしない。
蜂散さんは、俺のこと愛してる愛してるって、好きだ好きだって言うけれど。
でも、俺はあの人に面と向かって好きだとか愛してるだなんて言葉を発したことはまだ一度もない。
だってそうじゃないか、俺はあの人への気持ちを整理できずに、まだ、ほんとに好きかどうかさえ分からないんだから。
そう、そもそもそこさえはっきりすればいいだけの話。
俺は、俺は蜂散さんのことが、
「ツユキー」
バスルームから聞こえた蜂散の間抜けな声に、ツユキは自分の肩が大袈裟なほどこわばったのが分かった。
びくりと身を震わせて、は、はい!なんて返した言葉が震えて、
何やってんだろ自分、そう思うとツユキは一人盛大な溜息を落とした。
「………ツユキ」
首筋にかかった吐息に、ツユキはぞわりと鳥肌が立った。
一瞬固まったツユキを蜂散の腕は簡単に捕え、
あっ、と思う暇さえ無く、気付いたときにはツユキは蜂散の腕の中にいた。
回された蜂散の腕はまだ暖かくて、その体温が伝わるたびにツユキの心臓はどくり、と異常な運動をする。
身につけた洋服越しに、蜂散の心音が、体温が、ツユキをじわじわと侵食した。
いますぐ離してもらえないならきっと自分はどうにかなってしまうとツユキはうっすら思うのに、
それと反対に蜂散はぎゅうと強く彼を抱きしめる。
何といっていいのか分からなくて、ツユキはただただ息を詰めていることで精一杯で、
消え入るような震える声を何とか絞り出すことさえ、とても苦しくて、難しかった。
「あいしてるよ、ツユキ」
どくり、と波打つ思考の中、ツユキはおかしくなりそうだった。
蜂散が言っている言葉は、いつもと同じ、変わらない「愛してる」なのに、
どうしてこんなにも胸が痛くて、苦しくて、なんだか泣けてきてしまいそうだ。
きっとこれが蜂散さんの言う愛なのだと、ツユキはぼんやりと思う。
痛くて苦しくて重たくて、でも甘美で、とろけてしまいそうなくらい熱いんだ。
自分に回された蜂散の腕に、ツユキはそろそろと手を添えた。
「俺も、」
言いかけたその瞬間、そのまま噛みつくように唇を塞がれて、
ツユキはその甘さにおぼれるように目を閉じる。
ぱた、と音を立てて首筋に落ちた滴に、ツユキは鳥肌を立てる事さえできず、
それはただただ走る刺激になって、ツユキの全身を猛スピードで駆けめぐった。
この気持ちを表す術をぼくは知らない