静かな静かな夜

きぃ、とドアの開く小さな音
こんな時間に、こんな小さなカフェに来る人を俺は一人しか知らなくて
だからこそ俺の全神経が全力で叫ぶ、彼が来た!

慌ててカウンターに走っていくのも癪だから、なんだかそれじゃ期待して待ってたみたいで癪だから、
だから俺は拭いていた食器をいつも以上にゆっくり丁寧に拭き上げてから何食わぬ顔でキッチンからカウンターへひょっこり姿を現した
「あぁ、蜂散さん、いたんですか?」って、余裕綽々で言うつもりで。

でも、いつものカウンター席でニヤニヤ笑ってるはずの彼はそこにはいなくて、
誰ひとりいない店内が、やけにさびしく視界に映っただけだった。

走って駆け寄ってくのも恥ずかしいだろうけど、
いると思ってわざと気付かないふりをしてる方がもっと恥ずかしい。
だって、ほんとはそこにいないんだから。

うわあ、嘘、俺ったらドアが開く幻聴聞いたの、?
なんだか自分で何してるんだろうって、分からなくなって思わず盛大な溜息をついた。


「なぁ、ツユキ、ケーキもうないの?」


するはずのない聞きなれた声に思わずびくりと肩を揺らしてから、俺は慌てて視線を声のする方へ向ける
普段なら絶対いないところ、つまり、ケーキのショーケースの前。
蜂散さんは、ほぼ空っぽのショーケースの前にしゃがみこんで、
俺がついさっきまで、蜂散さんのせいでどれだけ焦っていたかも知らずに、
ただただ首をひねっているところで、

「な・なななにしてるんですか、そんな、ところで、!」

思わず上げた声は変なところで裏返って、俺はますます顔を赤くする
でも幸いなことに、普段なら「赤くなっちゃってかっわいー!」とかケラケラ笑うところの蜂散さんはそれに気づかない、
何故なら彼の眼に映ってるのは冷たいガラスのショーケースだけで、カウンター越しの俺には届かないから。

「なにってケーキ残ってないかなーって、みてんの」

でも、どれも売れちゃってんね、さすがツユキのケーキ、きっと美味しいんだろうなァ!超美味しいツユキが作っちゃうケーキだもんなァ!!
蜂散さんのいつも通りの笑顔といつも通りの甘くて臭いセリフはいつも通り俺の心臓を一発で飛び跳ねさせて、
セ、セクハラですよと俺が呟く前で彼はいつものカウンター席に陣取った。

前回の来店からはや2週間。
俺がどれだけ自分を待ってたかも知らないで、俺の心臓が嬉しくて喉から飛び出しそうなことも知らないで、
そりゃあ俺はそんなこと蜂散さんにペラペラ言ったりはしないけど、
蜂散さんはなんにも知らずにいつものカウンター席に座って、心臓を抑えつけようと必死な俺を見て、
それから、見透かしたように笑う

「俺が来るころにはいっつも売れちゃってんだろ?俺もツユキのケーキ食べてみてェなァって」

ぼんやりと、でもこの笑顔を見ていると思い直さずにはいられない、
この人は、やっぱりなんでも知ってるんじゃないだろうか

俺の気持ちも、
俺が今何を思ってるかも、
2週間前から、蜂散さんに食べてもらいたくてとっておいてた、ブルーベリーパイのことも

意地っ張りな俺だから、あっさり口にできないけれど
口にしないでいても伝わってしまうのなら、隠し通せる自信なんてなくて
そもそも隠すことなんてなくて、だって、それでも隠しておきたくて、

「ツユキがあーんしてくれたら、最高なんだけど、な」

カウンター越し、座った蜂散さんの座高と、立ったままの俺の身長差
気付いた時にはもう蜂散さんの指が俺の顔を捉えていて、
そっと頬を撫でられる感覚も、カウンター越しの蜂散さんの顔も、
俺の心を掴んで離してくれなくて
蜂散さんは俺の髪を弄ったり、耳を撫でたりして俺の言葉を待っていたようだったけど、
ちょっと背伸びしたら触れそうな距離だから、俺は心臓の音が彼に届いてしまうのが怖くて、
それに、これ以上このままでいたら心臓が爆発しそうな気がして、つい慌てて身を引いてしまった

しまった、と思ったけれど、するりと蜂散さんの指から俺の頬が離れた瞬間、彼は一瞬ぽかんとした顔をして
それから一つため息をついて分かりやすいぐらいへなへなとカウンターに突っ伏してしまう

「ま、ケーキがなくたって俺にはツユキっていう美味しいごちそうがあるけどな!!」

突っ伏したままの無理な明るい声でそういう蜂散さんが親指を立てて見せるけど、
俺は情けないやら恥ずかしいやら心臓が爆発しそうで、蜂散さんの気遣いも頭に入らない
ち、違うんです、俺、そ・その、拒否したわけじゃなくて、!!
むくれた顔の蜂散さんの誤解を解こうと口を開きかければ、蜂散さんの意地悪なキスが俺の口を塞いだ
言いかけた言葉は声にならずに押し戻されて、あとに残るのは呆気にとられたままの俺といつものニヤニヤ顔の蜂散さんで、

「やっぱツユキはとびきり美味いよ」

呟かれた言葉に、それは蜂散さんがモンスターだからでしょ、だなんて反論する気も起きなくて、
ただただ俺は笑顔のままの蜂散さんに溜息を一つ吐いてから、
冷蔵庫の中にしまっておいたブルーベリーパイを取り出した

空腹時には愛を