「お嬢、こないだのことスけど」
背後から、いつものように腑抜けた声がした。
動揺を悟られないように、たっぷりと時間をかけて振り向く。
「こないだ…何のことだったかしら?」
一度、知らないふりをしてから、思い出したように「ああ、あのこと」と呟く。
本当は忘れてなんかいやしない。
それどころかずっと気にかけていて、転の姿を見る度、いつか来るのではないかと内心怯えていた。しかしそれが態度に表れるなんて、考えるだけでも恥ずかしい。
焦る気持ちを悟られ、「意識してんスか」なんて目を細められたならばプライドはズタズタ、この世の終わりだ。
だから、そんな事など気にも留めない余裕っぷりを演出する。
大丈夫、忘れた“ふり”は出来ているはずだ。
「私は気にしていませんわ、もう過ぎたことですから」
「過ぎたことねぇ…」
転は目を細めた。何も考えていないように見えて、全てを見透かしたような目には口先の言葉なんて効かないようで、ヘレネは出会った時から苦手だった。
ヒールを履いても届くことはない、ヘレネを見下ろすその目を、少し睨みを利かせて見つめる。
「態々、揶揄するために来たんですの?」
「うんにゃ、別に傷つけようとは思っちゃいねえよ。どっちかって言うと、慰藉スかねぇ」
あんな傷ついた姿を見せられちゃあ、気になっちゃうのは当然、と、転は表情を窺うようにヘレネを見遣った。
それでも笑いを堪えてるように見えるのは、きっと半分位は本当に面白がっているんだろう。
「お嬢、否でも目立つからぁ、あの場にいた全員から注目の的だったし」
「……」
「あれ、やっぱ気にしてんすか?」
「……やはり、揶揄うために来たんですわね」
「いや。ハチルさんの今の様子でも伝えようかと思って」
その名前が、出てくることなんて分かっているのに、否でもドキっとする。
何でもないような顔をするのも、きっと精一杯に映っているはずだ。
けれど、再び“ふり”をする。その名前を聞いたって、何とも思っていないような“ふり”。
「あれから、ハチルさん。結構落ち込んでるんスよねぇ」
思いつめちゃうタイプだし。と、転は付け加える。
じっと、転を見つめるヘレネを、転もじっと見つめ返す。暫しの沈黙が続いた。
先に視線を逸らしたのは、ヘレネだった。
「そんなこと、言われても」
そんなこと、言われても。本当にそうだった。
「俺はハチルさんのあの体質をさっぱり理解できねェが、それはそれで可哀そうってことは理解できる。だからお嬢、許してやってよ」
「…許す、許さないの問題ではないわ」
「どうしてスか。好きなんでしょう」
「好き、かどうかも……もう分からない」
「まじっすか!ハチルさんの浮気性を知って冷めたっすか」
ヘレネは首を振った。ちがう、と。けれど、そうかも知れないと思ってしまった。
蜂散の浮気癖はこの間の件で理解した。それと同時に、やはり、と感じてしまったのだ。
身分をも取っ払って、恋がしたいと思っていた。ただ一人の人を愛し、愛されたいと。
けれど、本気で恋をした時に、何もかもを捨ててでもその人を愛し通せるのか。愛を盲目に信じ続けられるのか。
本当は自分でも疑心を抱いていた。
そこに蜂散が現れ、気になるようになり。この人になら、全力で恋が出来ると信じたところで裏切られた。
茫然とはしたものの、それほど傷ついていない自分もいた。
そこで気づいてしまった。成程、自分は恋に恋していたのか、と。
好きだと思っていたのも、全力で恋が出来ると信じたのも、自己暗示だったのかもしれない。
結局のところ、臆病なのだ。
好きの一心でいると、何もかもを失くした時、自分が分からなくなってしまうのではないかと。
転の言葉を咄嗟に否定したのは、そんな自分を否定したかったからだ。
ふう、とヘレネは息を吐いた。そして、再び転を見つめ直した。
「ちがうわ、冷めた以前の問題よ」
「ふうん」
転はもう一度、ふうんと言ってヘレネを見つめた。ヘレネも今度は目を逸らさなかった。
「意志の強そうな目すよね。アンタは何時もそうだ。内心は泣きそうでたまんないのに」
「…貴方に何が分かるの」
「わかるスよ。怖いんだろ、現実を見るのが」
「見ているわ、現実を」
「いや、見てねえな」
即答で否定した転は、もう笑っていなかった。
「ハチルさんはあれでも超一途スよ。軽い気持ちなんかじゃない。だからアンタがそうだと思わない限り、本当の愛に変わりねェ」
「………」
「そういう付き合い方の方が、幸せな場合もあるんスよ、お嬢」
まあ、無理強いはしないっすけどね。そう言い残して、転は手をひらひらさせながら去って行った。
その背中が見えなくなるまで、ヘレネはじっと見つめていた。
「…分からないわ…」
小さな呟きは誰にも届かず、空気となる。
蜂散を気になり始めてから、その存在を忘れたことはない。
その気持ちを本当の恋にするのか、冷めたと言って終わらせるのか、
それはヘレネの意志に懸かっている。
「分からないわ」
もう一度呟く。再び空気となる。
分からない“ふり”をしていては、何も始まらない。
そんなことは、もうとっくの昔に分かっている。
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